祖父を見送り部屋に戻った私。
つきっぱなしになっていたテレビをうるさく感じて思わず電源を切る。
心の中でさっきの祖父との出来事が何回もリフレインされて、その回数を重ねるたびに「ああすればよかった」「こう言ってやればよかった」が閃いては頭の中をぐるぐるする。
ああイライラする。たかが花一つで偉そうに。私の花が咲いていようが枯れていようが祖父に一切の迷惑はかからないし祖父が世話をしてくれているわけじゃないだろうに。
相当枯れているなら見栄えも悪いけどたった2つの花ガラ。何が悪いの?
そんなにすぐ切らないと花が枯れるの?あぁ、考えれば考えるほどイライラする。
とっさに機転を利かせてコテンパンにしてやりたかった。今なら色々思いつくのにとっさに何も考えられずに反論もできずに従って、相手のご機嫌を取るようなことを言うしかできなかった。
頭の回転も言葉の反射神経も鈍くてその場でなにもできず、後になってじゃないとあの手この手が浮かんでこない自分がムカつく。
ぐるぐるぐるぐる考えた。祖父への仕返しどうしてくれよう、自分のとった行動への反省、そして家族にそんなことを考えてしまう自分への罰のような蔑むようななんとも言えない気持ち。
考えていると芋づる式に出てくる過去の色んな出来事。
不思議なことに「良かったこと」「嬉しかったこと」は一切出てこない。
「あいつにされた嫌な事」「あいつに言われたあの一言」「自分は我慢したのにあいつはちゃっかりうまくいったこと」などの嫌な出来事が無限に出てくる。
無造作に置いた穴だらけの小松菜から這い出てきた青虫が数匹、部屋の床をウニウニと歩き始めていた。黒い小さな粒みたいな青虫のフンも転がっていた。
祖母の教えを守ってニコニコと感謝して受け取るように努めたさっきの自分が思い出されて涙が出てきた。
祖父の機嫌を損ねないように細心の注意を払って対応したけれど、祖父という生き物にはここまで気を使わないといけないものなのか。
貴族でも名家でもなんでもない、ただのサラリーマン一族だし家だって大人が数人集まったらギュウギュウの小さな家だ。
なんの変哲もない普通の家で、なんの権力もない普通の祖父で、私だってそこらへんにいくらでもいるようななんの能力もない普通の孫だ。
なんでこんな、いらないものをいらないと断ることすらできないんだろうか。
祖父の機嫌を損ねて何が悪いのか。
私の機嫌は損ねてもいいのか。
そういえば家族みんな祖父の顔色を伺って、怒らせないように爆弾を扱うかのようにご機嫌をとっている。
思えば「マナは我慢してくれる」とたくさん我慢させられてきた。しかし私以外の家族には「アイツはああいう奴だから仕方ないんだ、マナは理解してくれるよな?」みたいなこと言って私ばかり理解と我慢を求められた。
私以外の家族は自由に自分の要求ややりたい事をズバズバ通して過ごしていたというのに。
目の前も頭の中もグルグルした。
苦しい、苦しい…なんでわたしばかり我慢して黙って相手の言う通りにしなきゃいけないの…
…もう苦しい!!!!
「…こんな汚ねえ小松菜いらねえよ!!」
小松菜を引っ掴んで床に叩きつけたら小松菜と青虫とフン、そして摘んだ花ガラが床に大きく散らかった。
涙とイライラが止まらなくて思わず壁を右手で殴ったら壁は無傷。手が痛かった。ボロボロな古い家のぺらぺらの壁のくせにどうでもいいところで頑丈だ。
イライラに痛みと情けなさが加わって涙が止まらなくなった。
涙でにじむ視界にふと入ってきた花ガラ。
また先ほどの光景を思い出す。
そして
「私は花ひとつ、自分の好きなように育てることができないのか。」
と気づいたときに、真っ暗な部屋なのに稲妻が走ったような衝撃を受けて視界がビリビリしたような気がした。
…そうだった。ほんとうにいつだってそうだった。
親の言うこと・祖父母の言うこと・兄弟の言うこと全部信じて言うこと聞いてきた。
そればかりか「これをやっていいか?」「あれをやっていいか?」すべて家族にお伺いを立ててきたしどこかに行くときは相手も行先も全部告げて、用事が終わって帰ってきたら結果や内容も報告したし、それは私の結婚後も変わらず何かあるごとに親の指示を仰いできた。
親からの指示の内容は大体私のやりたい事と違ったけれど「親の言うことに間違いはない」と従ったし、私がやっていることは親や祖父母からチェックが度々入って、聞かれた内容は隠すことなく報告した。
私は「私というたった一つしかない花」を自分の好きなように育てて無いんだと気づいた。三十路を過ぎても親に養分という名の「承認や称賛」をもらって、どのように育っていくのかまでを委ねていたのだ。
小さなころから「マナはほったらかしていても自分の事は自分でする」「娘は母親の事を分かってくれて助けてくれる」「いい子」だと母からしょっちゅう言われていて、私はそれを褒め言葉だと受け止めて自信に繋げていた。
しかしよく考えたらあまりにそんな風に言われるものだから「私はほったらかされても自分の事をしなきゃいけないしそれができないと兄弟で手いっぱいの母に迷惑がかかってしまう」「娘である私は母の事を分かってあげないといけないし助けてあげなきゃいけないんだ」「いい子でいないといけないんだ」と自分で自分を律してとにかく相手の感情を察しまくって相手にとって都合がよくなるように行動して生きてきた。
「私の事はどうなってもいいから母が良い状態で居てほしい」「私に手間やお金なんてかけなくても自分でなんとかするからその分を兄弟にあたえてやってほしい」みたいな考えが骨の髄までしみ込んでいて、助けてほしいときに「助けて」と言えない人間になったように思う。
殴られたりののしられたりなどのドメスティックな目には一切あってない。
お店のトイレの「いつもきれいに使ってくれてありがとうございます」の様に、ただ相手からニコニコしながら「いつも○○してくれてたすかるわー!」「あなたが○○でいてくれるからありがたいのよー」などと明るく大感謝されるだけである。
ここで「へー」と軽く受け流せる人間性なら大丈夫なのだろうが、私のような気質をもってしまった人は「そんな風に言われるのならこういう風にしてあげなきゃ」「私をそういう風に言ってくれるのなら期待に応えてあげたい」などと相手の言葉を頭の中に自動的にインプットして様々な角度から計算をして、自動的に相手が望んでいるであろう行動をとってしまう。たとえ自分が損をしても相手のためにやってしまう。
そしてさらに相手に褒められて、さらにこちらが行動を起こして喜ばれて、それがだんだんと続いて行く。
最終的に相手はホクホクで「この人はすごくいい人」が当たり前になっており、さらに感謝に紛れ込ませつつ要望を伝えてくる。
要望を聞くこちらは内心ゲッソリなのだけど「喜んでほしい」「自分を認めてほしい」「助けてあげたい」などと自分で自分を奮起させて相手のために行動する。精神を削られ・自分の本音置いてけぼりで相手を察することに疲れ・時間や金銭などを犠牲にしつつも「自分が頼られる事へのうれしさと、自分が助けてあげないと誰がこの人をたすけてあげるの!?という責任感」などで相手の感謝の裏にある要望を読み取ってそれをかなえるべく行動をとり続ける。
もはや「明るい洗脳」であると私は思っているのだが、目に見えて分かるようなひどい目に合っていないので気づきにくいし私も三十路過ぎてもこの洗脳にしばらく気づかなかった。
もしかしたら同じような目に合って「なんだか私報われない…」とか「なんかよくわからんけどすげー生きづらい」とか「他人の為なら自分のお金や時間犠牲にしようがサッと動けるのに自分の為には微塵も動けない…なんでだろう」とか「家族に頼ってもらえないとなんかさみしい…トラブルとかないかなー?話でも聞きに行ってみよう」の「なんかよくわからんけどサイン」が出ている人がいるかもしれない。
万が一「あっ!思い当たる!!!」という人は、緊急を要してない限り相手のために動くことをいったんストップして、自分のために時間を使う練習をした方がいい。
…といわれてもこういう状態だったら「自分のためにすること」なんて何も思いつかなくて、結局刺激が欲しくてテレビやスマホでゴシップ情報探したりして脳だけでも忙しくしてしまったりすると思うけど、まずは自分のためにいれた飲み物を落ち着いて味わいながら外の音に耳を澄ませるとかでもいいしどこかの引き出しとかを一段整頓するだけでもいい。
いつも入っているお風呂とかでもいつもの手順でバーッとあらってバッと出るところを少し首回りだけでもマッサージしたりする。
小さいしょうもないことからでいい。
とにかく「人のためモードになっている自分」を「自分のためモード」に引き戻す。
徐々にその時間を増やしていって、人生の主導権を自分に戻していく。
そんな偉そうに言っている私も、他人に預けっぱなしだった人生の主導権を自分の手に戻すために現在練習しているところです。
自分以外の人のためにドタバタしていたころは髪をブラッシングしたらおびただしい数の抜け毛があたりに散らばってブラシにもごっそり抜け毛が付いていたけど、今の環境で人生を生き直す!と思って過ごしていたら抜け毛もだいぶんおちつきました。
強制的な環境の変更も時には薬になるのかもしれない。