…あれからどれくらい歩いただろう。
躓いてできた擦り傷から流れていた血は何時の間にかカラカラに乾いているし、涙も出尽くしてしまったかのように出てこなくなった。
足の付け根がズキズキと痛むし目も頭も腕も内臓も足も、体全部が熱くて重い。全身あらゆる部分が「もう無理です!」と悲鳴を上げているのが分かる。
「もう歩けない…。」
ヘロヘロと座り込んだ、見覚えのない田舎の道。
気づけば満月が大きく空に輝いていて、その周りをものすごい数の星がキラキラと彩っていた。
一心不乱に歩いていたら、いつの間にか夜になっていたらしい。
その月明かりに照らされた田んぼには稲が育っていて毛足の長い絨毯のように見えた。
古臭い家が点々とまばらに立っているが、どれも光が灯っておらず人の気配が無い。
ここはどこだろう?今、何時だろう?実家に住んでるから親が私の事を心配して連絡してきてるかもしれない。
慌てて鞄を漁ってスマートフォンを取り出し、操作してみるも反応がない。動かない。
いつも「どうせ親からしか連絡こないし家に帰ってから直接聞いた方が早いし」と思って気が向いた時しかスマートフォンの充電をしなかった。今朝会社で最後に見たスマートフォンの電池残量は10パーセントだった…そりゃあ電池切れになるよね。
もちろん、予備のバッテリーや充電器なんて持ち歩いていない。諦めてスマートフォンを鞄にしまって目を閉じた。
…たかだか片思いが実らなかっただけの、何も始まってなかった恋でここまで体をボロボロにして嘆き悲しんだ挙句に訳の分からない田舎に迷い込むなんて本当に馬鹿みたい…馬鹿みたいだよ私。
どうやらまだ私の体に水分が残っていたみたいで、目から温かい水分が流れて頰をつたう。
このままここで不審者に襲われても、野犬に齧られてももうどうでもいい。
急に宇宙人が現れてどこかに連れ去られてもそれでいい…
「あー!山野さん!ここに居たんだねー!」
不意に声がして体がビクッとした。もう今日はビクビクしてばかりだ…と思いながら声がした方に振り向いたら、ニコニコしながら上司の立花 葵(タチバナ アオイ)が立っていた。
その後ろには5人の男たちが横に並んで立っていて、まるで戦隊モノのヒーローみたいだ。
知っている人間の顔を見ることができて一瞬安堵する…けれどすぐに「おかしい」と我に返った。
嫌な予感がする。
私は職場から相当な距離を歩いたはずで、自分でもよく分からない場所に迷い込んだというのに、何故この人は私のいる場所が分かったんだろうか。
何故だろう。ただ単に迎えにきてくれただけという感じがしない。
勘だけど、危害が加えられる可能性が高い気がする。
どうしよう。武器なんて持ってないし持とうと思ったこともない。
そもそも喧嘩もしたことない私が、男6人相手に戦えるとは到底思えない。
確かにさっきまで「もうどうなってもいいや」とか思っていたけど、実際に危機が自分に迫ってきたらやっぱり怖いし逃げたいし身を守りたい。
戦うなんてやったことないし絶対無理。今私にできることは、この場から逃げきること…!
覚悟を決めて、男たちが立っている方と反対側に全力で走り出す。
しかし数メートル走ったら体に力が入らなくなって、またもや私の体は地面に倒れこんだ。
そりゃあ、限界を迎えていた体で走れる訳が無いよなと納得した。
今度は顎も打ったらしく、もはやどこが痛いのか分からないくらい全身が痛い。
たかだか1人で勝手に失恋しただけなのに、なんでここまでコテンパンに酷い目にあわないといけないのか。
倒れ込んだままぼんやりしていると足音が近づいてきた。
「もぉー!山野さん、大人しくしてー!」
職場でいつも聞いていた立花の喋り方と全く変わらない。相変わらずのほほんとした口調。
立花…この人はよくわからない品があって、漫画で例えるなら◯執事系の顔立ちと体つき。いつもニコニコしているけどなんだか奥に怖いなにかを持っているような…。
「この人とはあまりお近づきになりたくない」と思っていた私は、最低限、社会人としての礼儀だけ忘れないように対応して後はさりげなく逃げ回っていた。
よりにもよってそんな男が私の前に立っているなんて嫌な予感しかしない。しかも後ろの男たち5人は明らかにうちの職場で見たことない顔ぶれで、私よりも背が高くガッチリしていて強そうだ。
冷静に考えて、この私の身長よりも高い人間がゾロゾロいるなんてありえないだろう。これは夢か、夢なのか…。
…とかなんとか思っていたら、右手に激痛が走った。何事か分からずに右手を見ると右手の上に靴が乗っていた。
なんとか顔を上げて上を見ると、長ーい足、胴体、その上に端整な顔が見えた。立花だ。奴が私の右手を踏んづけながらニタニタ笑って立っている。
大きな満月をバックに立っている立花はまるで死神のようだ。私はこのままここでこいつに殺されるんだろうか。
「…ねぇ、山野さーん。」
こんな状況なのに相変わらずのほほんとした喋り方で話しかけてくる立花。心底気持ちの悪い男だと思った。これが世に言うサイコパスって奴なんだろうか。
というか、生きて帰れたら速攻で通報して、コイツ…この立花だけは絶対刑務所にぶち込んでやる!
絶対に許さん!
怒りが湧いてきたところで急に後頭部を掴まれて体を持ち上げられた。
地面に這いつくばっていた状態から急に立ち上がる状態にされて全身が痛む。
もう今日はあり得ないことだらけで心も体も痛い事だらけで散々な日だ。
必死に横目で後ろを見たら、立花の後ろにいた男がいつのまにか私の後ろに立っていて、私の後頭部を片手で鷲掴みにして持ち上げているらしい。どんな怪力なんだコイツは…。
もう、掴まれた頭は割れそうなほど痛いし、足が地面につかないように持ち上げられているから走って逃げるのも無理。まさか自分が首根っこを掴まれて持ち上げられる猫の様な体勢で持ち上げられる日が来るとは夢にも思わなかった。最悪だ。
しかも目の前には立花が微笑んでいて逃げられない状況。最悪にも程がある。
月明かりに照らされた立花は男の癖にねっとりとしたおかしな色気を放っている。ちょっと伸ばした黒い髪はサラサラで手足はすらりと長い。背も私と同じくらいあるし顔も人形のように整っている。これが世に言うイケメンという奴だろう…まぁ、私はコイツ大ッッ嫌いだけどな!!
今の状況から推測するに、多分私は普通に帰らせてもらえる事はないだろう。
何かしら嫌なことをされるか、命を取られるか。
それなら死ぬ気で力一杯暴れて、あわよくば立花を蹴り飛ばして一撃でもいいから加えてやろう。窮鼠猫を噛むってやつよ!
宙ぶらりんにされつつも身構える私を前に立花が口を開いた。
「山野さーん、ハネムーンいこっか。」
「はあ?」
予想外の一言に、反射的に不機嫌な「はあ?」が出てしまった。
いや本当に何を言ってんだコイツは?頭がイカレてるのか?人様の右手をゴツい皮靴で力一杯踏んづけときながらよくそんな事を言えるな?
全身が怒りの感情でカッと熱くなり、立花への攻撃とか仕返しとか考えられないくらいの尋常じゃない怒りがグラグラと煮えたぎる。
…コイツ、本当にもう…殺す!!!
立花を睨みつけたが、ヤツはニコニコしながら近づいてきた。
おっしゃ来やがれ立花…こんな私だって男性最強の弱点を知ってるんだよ。どんな屈強な男性でもココを攻撃されたらのたうちまわって苦しむ、そんな人体の部位…。
…喰らえ!
キン◯マ蹴りじゃオラァァァ!!
立花の局部に向かって、残った力を全て振り絞って右足で蹴りを繰り出した。
しかし立花に当たった感触は無くて、蹴りが空振りに終わったことが分かった。
「アハハハハハ!」
私の右隣から立花の大笑いする声が聞こえた。
私の蹴りを上手いこと避けながら、私の右隣に回り込んだらしい。
涙をぬぐいながら立花はしつこく笑っている。
本当に腹が立つ男…こっちは何一つ面白くないというのに。
右隣の人間に対して繰り出せる必殺技に心当たりが無くてひとまず抵抗を諦めるしかなかった。
ここから無事に帰ることができたら、とりあえず空手か合気道か少林寺拳法かシステマか…何か格闘技を習おう。こういう時に備えよう。できれば立花をボッコボコにできる技が習いたいな。
ブツブツ考えている私をよそに、ひとしきり笑い終わった立花が言う。
「あー、やっぱりキミは面白いねぇ。だからどうしても気になっちゃうんだよねー。」
私が言い返すよりも早く、目の前に影が迫ってきて口に何か柔らかい物が引っ付いた。
何が起こったのかわからなくてしばらく固まっていたら、口に引っ付いた物が離れる感触があってその後目の前の影が少し離れた。そこには微笑む立花の顔があった。
私の唇にくっついたのはまさか…立花の…唇?
まさか…立花とキ…きき…ききき
…ぎいゃああああーーー!!!
私が!この私が37年間ずっとしたことなくて「初キスは好きな人と♪」なんて憧れながら良いご縁があるまで大切に守っていたこの私の大切なファーストキスを…!!
よりにもよってこの世で1番大嫌いな人間に奪われるなんて!!
もう今日は何から何まで全てが最悪で最低だ!!
この野郎だけは絶対に殺…
「山野さぁーん、どうする?」
空気も読まずに話しかけてくる立花にありったけの全力で怒りをぶつける。
「どうするって何が!!?警察に捕まれよもう!刑務所入れ!変態!二度と私の前に出てくんな変態!!」
…せめて言葉でだけでも立花の心を抉ってやりたいのに、私の口から出てくる言葉に全然攻撃力が無い。小学生がバカアホ言ってるのとそう変わらない語彙力…格闘技に加えて、日本語も習いに行こう。立花をボッコボコにできる日本語を身に付けたい。
そんな私を前に立花はキョトンとしながら言い放つ。
「いやいやー、そういうことじゃ無いよ山野さん。どうするっていうのは子作りのことー。人間式と宇宙人式、どっちがいい?」
思ってもなかった言葉に対して私は
「は?」
としか言うことが出来なかった。