最近、家の色んなところが目につき始めた。
トイレに入るときに扉が至近距離で二重になっており、奥に設置されている女性用のお手洗いに入るのがちょっと難しいこと。
お風呂が昔風なのでお湯やシャワーのシステムが無い事。
「これ、絶対使う事ないだろ?」と思うような「古びた謎のプラスチックケース」が流し台の上をデカデカと占拠してる…などなど。
以前は「あー、落ち着いて住める。住めるだけありがたい…!」とか思っていたのに。
日々生活していて安定してくると「おやっ?ここはちょっと…良くないねぇ」みたいな余計な気づきが発生する。
「私って贅沢な人間だなぁ。」とか思いながらも、今の生活は「生活コスト」も低いし自分の好きなようにさせてもらえてるし以前の環境よりはるかに静かに暮らせるからあまり贅沢な事を思っちゃダメだよ!と自分を諭していた。
だけど ふと「諭している」行為で「自分の願望を自分で押さえつけてる」んじゃないかと思って。
じゃあ「私が住みたい家ってなんなんだろう?自分の願望や理想を押さえつけずに隠さずに、自分で好きなだけ妄想してみよう」
…と思ってやってみたんですね。
そしたら頭の中にパッと浮かぶイメージが「窓から光が穏やかに差し込む窓際、茶色系統で落ち着いて統一されたインテリア、少なめの家具。下を向いてはにかむように笑う女性…。」
だけどそれ以上のイメージは湧いてこないしお風呂やトイレの理想のイメージもなにも湧かない。
そのはにかむ女性のイメージは明らかに私じゃない誰かだしその女性は静止画のように止まっていてピクリとも動かない。
「…これが私の 欲しい家 のイメージ???」
しかもよくよく落ち着いて自分思いをまとめてみると「特にこのイメージの家がほしくてほしくてたまらないわけじゃないけど、なんとなくこれじゃないとダメ。」とかいう曖昧さ。
なんだこれ、どこでこういうイメージがついたんだ?
人付き合いは少ない方だったからあまり人の家に上がらせてもらうこともなかった。
むしろ人の家にお邪魔するのは気を使いすぎてすごく苦手だったから積極的に外で遊ぶようにしてたし、人の家なんてほとんど知らない。
しかも友人達は昔ながらの日本家屋系の家に住んでいる人が多かった。
こんな小綺麗なカフェみたいな空間に住んでいる人はいなかったし、居たとしてもその家は玄関先から物が溢れていたりして。
だから私は「友人や知り合いからの影響」を受けて「家のイメージ」を作り上げているわけじゃない。
だとしたら、なんだろう?
それにしてもこの「頭に浮かぶイメージ」、どこかで既視感あるんだよな…どこだろう?
…とか思っていたら気がついた。アレだ!「ありがとう!」みたいな名前のシュフ系雑誌だ!!
試しに以前買った「この雑誌」を出してきて広げたらドンピシャで正解!
広げたページがもはやコレ。このイメージそのまんま。
「私の描く家づくりのイメージは、コレが原因だったのか…。」
謎がとけた。
なんとなくペラペラと雑誌のページをめくる。
この雑誌に出てくる人はみんな、だいたいみんな物の少ないこざっぱりしたフローリングの家ではにかむような表情でカメラから目線を外して写真に収まり、自分の家の快適さや家計管理、○○万円貯めました!みたいな情報をアピールしている。
だけど出てくる写真はことごとく「カフェ風」「シンプル」「ミニマル」で、日本家屋系の昔ながらの家で登場している人は居ない。
誰も彼も妙に物の少ない家に住み、ことごとくフローリングで稼ぎもやたらと多く、住居費は高かったりするものの車の維持費やガソリン代もありえないくらい少なく、快適ライフを送っている。
間違っても「物が多い義理の実家に嫁いで、自分の判断で物を勝手に捨てたり移動したりできない中を快適に暮らせるように工夫している」…みたいな身近に感じられるサンプルの人は登場しないし、一人一台車がないとやってけないような田舎暮らしの人だって登場しない。
この人たち「年一回で贅沢します♪」とかなんとか言ってるけどそれ以外趣味とかないのかな?
旦那さんは趣味とか持ってないのかな?妻のやり方におとなしく賛同してくれる優しい人ばかりなのかな?
食費少ないけど普段何食って生きてんの?
…自分の知らない世界のひとたち。不思議で仕方ない。
雑誌に堂々と掲載されていてことごとく皆似たような生活してるから「みんなこんな生活してるんだ、私も同じようにしなきゃ…」ってついつい思ってしまうけど。
よく考えたら私がこの人たちと同じような環境に行って同じような稼ぎで家も同じようにして…ってやったところで私の場合、楽しいのは最初だけだなぁ。
私はこんなにシンプルに暮らせないし夫も趣味のものをガンガン増やしまくる挙句に片付けられないタイプだし、この「カフェ風のシンプルライフ」を維持しようとしたら私がイライラして荒れるだけだろう。
この本は「ライフラインが整っていて核家族として生活しているガチ都会人のためのガチ都会人によるガチ都会人のための教本なんだなぁ」と気づいた。
そしてそんな「ガチ都会人」のための情報なのにガチ田舎者の私はその情報に踊らされてた。
気づいたら私の頭の中に「雑誌みたいなカフェ風の家じゃなきゃダメ!」が住み着いていた。
今あるせっかくの環境を「古い!やだなぁ!」とか「もっとカフェっぽくならないかな」とか思わせて、必死の断捨離とか無駄なあがきをさせていた。
物をいくら捨てても雑誌みたいなミニマル・シンプルライフにならないし、雑誌によく出てくるセリ○でカフェっぽい小物を買ってきて置いたところで嬉しいのは最初だけ。すぐに埃を被るだけ。
「なんで全然カフェ風にならないのー!?家が悪い!!!アレも不便だしコレも不便だしなんなのよもう!!!」ってイライラしていた。
いや、よく考えたらそもそもの環境が違うし。
アリはキリギリスになれないし、キリギリスにもアリにはなれないんだよ。
畳はフローリングにならないし、フローリングも畳にならないんだよ。
実際「カフェな環境」を手に入れたところで「自宅カフェ」やるわけでもないし人を家に呼びたいなんて微塵も思わないし。せいぜい「自分たちがコーヒー入れて自己満足する」くらいかなあ。
むしろ支払いに追われて夫婦仲が険悪になってるかもしれないし。逆に幸せになってるかもしれない。こればかりは手に入れてみないと分からないけど。
あー、ほんとに。
「家はカフェっぽくないとダメ」な呪い、今すぐ解こう。
雑誌やテレビはほどほどにしておこう。
カフェ=素敵な場所っていうメディアの方程式はあってると個人的には思うけど、だからってなんでもかんでもカフェやらオシャレにすりゃいいってもんでもないと思うしなぁ。
私は「実用的」で「ハイテク」「カッコイイ」が好きだし「ゴロゴロだらける」のも好き。
「オシャレ」とか「映え」とかあまりいらないや。
落ち着いて、自分にとって「快適な暮らし」を考えていこう。