ねぇ、リアルってどうやって充実させるの?

リア充になる方法を模索する人間(女)のブログ(雑談大量!)

ふと思ったこと。

小学校の頃、運動会の練習として集団でひたすら校庭を行進している時にふと目にとまった「私たちが右足左足揃えて行進とか、こんなにどうでもいい事を必死でやらなければならない時に、外の道路を車で走っていく大人の人」がものすごく羨ましくて仕方なかった。

 

中学校で少し校則が厳しくなって、スカート丈を短くしている人がいるやらお菓子のゴミが発見されたとかそんな他人のやらかしたどうでもいい事でいちいち学年全員が体育館に集められて連帯責任でひたすら怒られて、時には膝をつかされて床に沿うように広がったスカート丈を採寸されたり面倒な目にあいながら「さっさと大人になりたいな…大人になればうるさく注意してくる人がいないだろうし」と思っていた。

 

高校でも同じく。

比較的自由な校風だったが、校則を破った人が増えてくると学年全員が一部屋に集められて注意を受け、部屋を出る時に一人ずつ服装を確認された。

 

本当だったら違うことができたであろう数十分。

 

校則を破ってチェックに引っかかった人を見ながら「こんな校則一つ守れない奴のせいで、全然違反してない私たちの時間まで無駄になったじゃん…。髪染めたければ学校卒業してからやればいいし、そんなにスカート短くしたければ家帰ってからマイクロミニでも履いとけよ!学校でやるな!こっちまで巻き込むな!」とムカムカしては「さっさと大人になって、こんな他人がやった事で連帯責任になってガタガタ注意されない生活がしたいなあ…。」とか思っていた。

 

学生は、学費がかかって親に迷惑がかかる。

「この学校はやりたい事を探せるから!」と適当な言いながら、本当は親にふわっと言われた「私立はお金かかるから市立に言ってくれたらいいなぁ」だけを最優先で考えて選んだこの高校。

愛着や思い入れなんか全くなくて「市立とはいえお金かかるから早く卒業したい!」その一心だった。

 

親にできるだけお金の負担をかけたくなかったのもあり、さっさと卒業して仕事に就いて自分で稼ぎたかった。

 

さっさと卒業したかったから授業とかも好きなとこだけ聞いて苦手なところは適当に流していたので、大嫌いな数学では赤点を取ったこともあるけど「数式なんて日常生活のどこで使うの?いらなくない?」とか思っていたし、大半の授業は「なんかやらなきゃいけないからやる」感じでほぼ興味が無かった。

 

服装が真面目で素行も真面目。

勉強はそこそこなのに、パッと見の真面目さだけで教師からの評価は悪くなく、懇談などではやたらと褒められたが「私は真面目しか取り柄ないから、他に言える事がないんだろうなぁ…親との空間じゃ先生も何か言わないといけないだろうし」と思っていて褒められても嬉しくなくて、でも喜ばなきゃいけないと思って表情だけは笑顔にして「ありがとうございます♪」とか言っていた。

 

規則・校則は固く守った。

そんなこんなで学校を卒業した。

涙は一粒も出た事がなく、隣で号泣するリア充女子に引いてしまっていた。

 

そういえば就職を考える時期。

就職活動といってもやりたい職種なんか考えたこともない。というか今思えば「ちゃんと自分の頭で考えようとしなかった」だけなのだけど、私は「社会経験が豊富だから考えてほしい」と言いながら親の意見に従った。

適当に持って帰った求人情報のコピーを見せて選んでもらった。

 

もともと「あれをしろ、こうしたほうがいい、これをすれば間違いない」などと指示を出したい系の親だったので、ちゃんと意見を仰いだほうが喜ばれるし親孝行になると思っていた。

 

そんな感じで選んだ職場に無事就職。

親には喜んでもらえて応援やアドバイスをたくさんもらった。

言われた事はきちんと守って、会社でもきちんと働いて評価も「真面目でいい子!」とのことだった。

 

しかし時折「私は何やってるんだろう?」と思うようになって5年少々経過し、苦手な人にニコニコしたり誰に対してもいい子でいようとしすぎて軽くバカにされるようになったりうまく愚痴吐き場にされたりするようになって、私生活でもなんだか苦しくなった。

 

「真面目に一生懸命生きてる素直で清貧だけどいつもにこやかな人」でいるようにしておけば幸せになれるのかと思っていたけど苦しくなるだけで、ベルトコンベアの上を流れてくる部品のようにいつまでたっても同じような「仕事で終わる日々」が流れ続けてくるだけで、一向に幸せになれる気配がない。

 

月々お給料を稼いでいるはずなのに貯金なんてありゃしないし旅行なんて夢のまた夢だった。

 

私は折れるように退職した。

「真面目なお前が急にどうした?」と上司や事務の人たちに物凄く心配されたが「具合が悪い」ことを理由にした。みんな納得してくれたうえ、使ってなかった有給を全部使わせてくれた。有り難かった。

 

「私がやらなきゃ誰が代わりをやるの?」と思ってゴリゴリに仕事をして、愚痴を聞いたりサポートしたり慰めたり。仕事も日常もフル回転で基本的に他人のことばかりして、他人のことばかり考えていたし、他人からの評価が自分の価値だと思っていたから、他人に何かあれば全力でできることをやったし他人が私の陰口を言っているような気配が一瞬でもすれば死ぬ気で相手の懐に飛び込んでいってフォローしたり相手をいい気分にするようなことを言ったりした。そしてその場がうまく収まっても「あの人もしかして私のこと嫌なのかな…」とグルグル考えて死ぬほど落ち込んだ。

 

 

 

…いろいろあって今の生活を手に入れて落ち着いた人達の中で落ち着いて生きる事が出来るようになった今、自分のためにトーストにベーコンと卵乗っけて焼いたりコーヒーいれたりする事が嬉しいと感じる。

 

学生時代もこんな感じで自然に生まれてくる自分の気持ちを大切にすれば良かったし、「さっさと大人になりたい」とかどうなるか分かりもしない未来や嫌な面ばかり見てないで「その時の自分のやりたい事や進みたい方向」なんかを自分の頭でちゃんと一生懸命考えたら良かった。

 

「こうすれば親が楽かも?」「親が喜んでくれるかも!」などと親の目や気持ちばかりを伺わずに、周りの人の目に怯えずに、その時に自分がやるべき事をきちんと全力で堪能して「全部私がやった」と思える日々を過ごせば良かった。

 

ゲームばっかりやってる場合じゃなかった。

きちんと考える時間は長過ぎるくらいあったんだ。

私はほぼ全部ゲームに浪費して、その経験は今に何一つ活きていない。

 

学校を卒業する時に隣で号泣していたリア充女子と一緒に涙を流せるくらい。

カッコつけたり捻くれたりせずに、もっと一生懸命その時間を生きたら良かったなぁ…。

思えば、彼女たちの方がよっぽど笑顔でよっぽど楽しそうでよっぽど真剣にその瞬間を過ごしていた。

 

時には話しかけてくれることもあったのに、自分に無い雰囲気を持った彼女たちを避けて、同じ学校出身の人や自分と似たような雰囲気の人とばかり一緒に過ごしていた。

 

なにもかもが消化試合で変化や新しいものは怖いからできる限り言い訳を並べて避けて逃げて、それでも何か決めなきゃいけない場面では他人の力を頼ったり誰かが手を差し伸べてくれるのをじっと待った。

 

お陰で大きな失敗はした事がほとんど無いけど、その分いろんな経験も受け流してしまった。

周囲の評価やかかるお金に怯えてばかり。

 

あの日行進の練習をしながら見えた、校外の道路を駆け抜ける車に乗った「なんでも自由が利く大人」に私もなっていたはずなのに、全然自由じゃなかったしなんなら自分で自分をがんじがらめにした挙句に、自分を放り投げて他人中心に生きていた。

 

学生時代に仲よかったけど、大人になって10年以上会ってなくて誕生日プレゼント送り合うだけの友人や年に1回も合わない女子会メンバー、年賀状で近況を知るだけの友人の顔色を伺って「お祝い事!?贈り物しなきゃ」とか「プレゼント何にしようか」とか、相手の顔も思い出せない関係なのに必死で考えたり、過去に関わった人と同じ誕生日のナンバープレートの車を見ただけで「まさか、あの人になにかあったのかな」とか「これはなにかのサインなのだろうか」とかいちいち考えてしまったり。

 

大人になりたくて、自由になりたかったはずなのに過去にすがって他人の評価を気にしてよく分からない何かに怯えてご機嫌を取ろうと右往左往。

 

「気付き」というのはその瞬間じゃなくて大体後になってやってくる。

日々がルーティンになってくるとつい「今、生きてる事」を忘れて有り難みを忘れるどころか忙しさに疲れたりイライラして「もっといい生活を目指さなきゃ」とまた分かりもしない未来に期待して頼ってしまう。「いい生活」になるためのなんの行動もしてないのに。

 

今、校外の道路を車で走る自由な大人の立場。

髪を染めようがスカートを短く履こうがお菓子を食べようが自己責任で自由。

 

自分は何をしたら楽しくて、何に向いているのかをきちんと考えるべき時期に周りの目ばかり気にしてきちんと考えてこなくて、今もよくわからなくて「特に何も…」って感じで、日々の生活が落ち着いてなんとなく生きる感じになっている。

 

無事に迎えた2019年。

夢中で没頭してしまう何かを、小さなことでもいいから探しまくっていきたいと思います。

あと、現実的にお金もうまくつかえるように考えていきます。コツコツいくぞ。